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カンボジアを旅する<カンボジアの歴史2>

<カンボジアの歴史 - 近世>

17世紀から18世紀は、隣のシャムやベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混乱した。

1845年に即位したアン・ドゥオン王は、ひそかにシンガポールのフランス領事を通じて
ナポレオン3世に援助を要請したが、事前にシャムに情報が漏れ、失敗に終わった。

<カンボジアの歴史 - 近代(植民地時代>

19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島(インドシナ)の植民地化が始まった。
アン・ドゥオン王の子であるノロドム王はフランスと交渉しカンボジアはフランスの保護国になった。

1863年フランス植民開始、1887年にはカンボジアが仏領インドシナに編入された。
1907年には、シャムからアンコール付近の領土を奪回した

1940年には日本軍がインドシナに侵攻し、この機に乗じてノドロム・シアヌーク王は
1945年3月12日にカンボジアの独立を宣言した。しかし、日本が連合国に降伏すると、
1946年には再びフランスの保護下に戻り、独立は消滅してしまう。

ノドロム・シアヌーク王は粘り強く独立運動を続け、1947年には憲法を公布、
1949年にフランス連合内での独立を獲得した。
1953年には警察権・軍事権を回復し、完全独立を果した。

カンボジア・アンコールワット
<カンボジア・アンコールワット>

<カンボジアの歴史 - 現代>

カンボジア王国 (1953〜1970年)
1955年、アジア・アフリカ会議(バンドン会議、バンドン, インドネシア)において、
シハヌークは非同盟・中立外交政策を表明、ノドロム・シアヌーク王は、王位を父に禅譲し、
サンクム・リアハ・ニヨム(人民社会主義共同体、サンクム)を組織、同年の選挙で 首相「独立の父」に就任
1956年、東南アジア条約機構への加盟を拒否。1965年5月、シアヌーク国王は北ベトナムへの
爆撃を行なうアメリカ合衆国との断交を宣言した。

クメール共和国 (1970〜1975年)
1970年3月17日、親米のロン・ノルがシアヌークの外遊中にクーデターを決行し、シアヌーク一派を追放、
クメール共和国の樹立を宣言した(10月9日)。
彼は翌4月、アメリカ軍に自国を侵攻させた。ベトナム戦争のホーチミンルートを粉砕するためだったが、
このために国民の不人気を買った。
シアヌークは中国(北京)へ脱出、「カンプチア民族統一戦線」を結成、彼を助け、共にカンボジア帰国を
果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポト、キュー・サンパン、イエン・サリらの指揮する
共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。
10月、ポル・ポトはシアヌークを擁立してロン・ノル政権との間で内戦となった(カンボジア内戦参照)。
1971年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させた。
10月、ロン・ノルは軍事独裁体制を宣言し、1972年3月に新憲法を公布した。

民主カンプチア (1975〜1979年)
1975年4月17日、ロン・ノルは亡命、ベトナムではサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結した。
この後、クメール・ルージュが首都プノンペンに入城し、1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布し、
国名を民主カンプチア, Democratic Kampuchea に改称した。
クメール・ルージュは、共産主義にもとづく強力な農業本位と民族主義を打ち出した。プノンペンを始め、
中産階級的な都市住民を強制的に農村に入植させ、強制労働を科した。
頭脳階級や留学生、クメール・ルージュ組織内部のスパイは、政治犯収容所S21
(現トゥールスレン虐殺博物館)などに収容、200万人を超えるともいわれる虐殺・粛清 を行った。 
1978年1月、ベトナムと国境紛争を起こし、ポル・ポトはベトナムと断交した。
この頃、ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソ対立の構図から、中華人民共和国と
関係の深いポル・ポト政権と対立することとなった。
ベトナムはポル・ポト打倒を掲げ、ベトナムに亡命していたヘン・サムリンを首相に擁立して侵攻した。

サムリン政権 (1979〜1991)
1978年12月25日、ベトナム軍は、かつてはポル・ポトの配下だったヘン・サムリンの率いる
「カンプチア民族救国統一戦線」とともに、カンボジアに侵攻
1979年1月6日、ベトナム軍がプノンペンを攻略、シハヌークは北京へ逃亡、ポル・ポト、イエン・サリら
クメール・ルージュ はタイ国境近くまで駆逐される。
その後、親ベトナムのカンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)が樹立されたが、
「民主カンプチア連合政府三派」(ポル・ポト、シハヌーク、ソン・サンの各派により、
1982年 に組織) と内戦状態になった。2月には中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを
攻撃した(中越戦争)。しかし、中国は戦争慣れしたベトナム軍に惨敗し、3月には撤収した。
その後の内戦はさらに国王派など2派を含んだ複雑なものとなった。
1981年6月、ヘン・サムリン政権は新憲法を採択した。1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム3派は
北京で会談を開き、7月には反ベトナム3派の連合政府・民主カンボジアが成立した。
1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談でベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、
3月にベトナム軍はポル・ポト派の拠点を攻撃した。
1984年7月の東南アジア諸国連合外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。
しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に民主カンボジアの拠点を攻略、
3月にシアヌーク国王派の拠点を制圧した。
1988年3月、ベトナム首相ファン・フンが急死し、政変が起こると、6月にベトナムは軍の撤収をはじめ、
1989年9月に撤退を終えた。その結果、ベトナム軍の支えを失ったフン・セン政権は弱体化し、
内戦は泥沼化した。
1990年6月、東京で「カンボジア和平東京会議」を開催した。
続く1991年10月23日、「カンボジア和平パリ国際会議」
を開催し、最終合意文章( "国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC) の設置、武装解除と内戦の終結、
難民の帰還、制憲議会選挙の実施など)の19ヶ国による調印に達した。
ここに、20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。

現代「カンボジア王国」
1991 - 1993年、暫定的統治機関「カンボジア最高国民評議会」
1992年3月、国際連合による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 事務総長は明石康)が
平和維持活動を始め、1993年4月には総選挙が行なわれ、立憲君主制を採択。 
「二人首相制」:シアヌークの二男 ラナリット(FUNCINPEC党;
「独立・中立・平和・協力のカンボジアのための国民統一戦線」)が第一首相、フン・セン(人民党)が
第二首相に選出される。9月23日、制憲議会が新憲法を発布した。
9月24日、ノロドム・シアヌークが国王に再即位、「カンボジア王国」が、およそ23年ぶりの
統一政権として誕生した。
1997年7月、政変が起こる(FUNCINPEC党と人民党の軍隊が衝突、プノンペン)、東南アジア諸国連合
加盟が延期されたが、1999年4月に加盟を果たした。
1998年7月、総選挙;人民党が第一党となりフン・センが首相に就任
なお、ポル・ポトは1998年4月に山中で死亡しており、12月にポル・ポト派幹部が国民へ謝罪した。
2001年1月、ポル・ポト派幹部を裁く特別法廷が設置された。
2004年10月14日、ノロドム・シアヌーク国王が退任、息子のノロドム・シハモニが即位した。
2006年10月18日、民族統一戦線(フンシンペック党, FUNCINPEC)は、ラナリット氏を党首解任、
駐ドイツ大使のケオ・プット・ラスメイ氏を選出、第1副党首にはルー・ライスレン氏、
第2副党首にはシソワット・スリウッド殿下が選出
2006年11月16日、ノロドム・ラナリット(Norodom Ranariddh)皇太子は、
ノロドム・ラナリット党(The Norodom Ranariddh Party)を設立

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